こんな話があります。
ある所に2軒の家があり、1軒は毎日家族が喧嘩ばかりしています。もう一方の家はとても仲がいいので、喧嘩ばかりしている家の主人が仲良しの家の主人に「どうしておたくは仲良くできるのか」と秘訣を尋ねました。
すると、「あなたの家族はきっと善人ばかりなのでしょう。我が家は悪人ばかりの集まりだから喧嘩がないのです」と答えられました。
どうも意味のわからないまま帰った次の日の朝、隣の仲のいい家族が大騒ぎしています。どうも飼っていた馬が家の中に飛び込んで暴れ回ったらしい。これは喧嘩が始まるぞと覗きに行きますと、そこのおじいさんが「私が悪かった。昨夜馬の繋ぎ方が不注意だったからこんなことになった」と言いました。
するとおばあさんが出てきて、「この私が不注意でした。私が悪いのです」と言う。
今度は若い主人が出てきて、「年寄りは早く寝て当然。この私が若いくせして不注意でした」と言っていると、その奥さんが「いいえ、私が悪かったのです」と言い合っている姿を見た喧嘩ばかりの家の主人はやっと頷けたのです。
「なるほど、我が家は悪人ばかり集まっているから喧嘩にならない。おたくは善人ばかりだから喧嘩ばかりと教えてくれたのはこのことだったのか。我が家も見習って、悪人ばかりの家にしよう」
「私が正しい」「私は間違っていない」という善人の家は、いつも「悪」のなすりつけあい。悪いのはいつも自分以外の誰かなのです。一方悪人の家では「私が悪かった」「私の方こそごめんなさい」と非を認め合うというお話しです。
一見、善人ばかりの家の方が喧嘩もないのではと思うかもしれません。しかし私たちは煩悩にまみれた凡夫。全ての物事を自分中心にしか見ることができない存在です。いくら凡夫が善人になろうとしても、それは自分をよく見せようとするあまり自分の非を認めないだけじゃないでしょうか。その結果、全ては自分以外が悪いと相手を非難する。
「私が悪かった」と言えるということは、自らの非を認めるということです。なかなか自分を悪人だと認めたくないですが、自ら悪人と自覚することで「私が悪かった。ごめんなさい」と素直に言えるようになりたいですね。
私も反省です。
南無阿弥陀仏