ご本山では、1月9日から1月16日まで「御正忌報恩講」をお勤めしています。
この「御正忌報恩講」というのは、宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲ぶと共に、そのご苦労を通じて阿弥陀さまのお救いを改めて深く味わわせていただく法要です。当山妙善寺でも、毎年11月11日にお勤めしています。
今月のお話は、この親鸞聖人の著書であります『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の中にあります、皆様も馴染みの深い「正信偈」についてお話させていただきます。
「正信偈」は、正確には「正信念仏偈」と言います。これは、親鸞聖人が著されました『顕浄土真実教行証文類』の行巻の終わりに書かれているもので、七言六十行百二十句からなる偈文(漢文による歌)によって作られています。
「正信偈」は、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という御文から始まります。「帰命」と「南無」は、共に「おまかせする」という意味です。
「帰命無量寿如来」の中にあります「無量寿」というのは、「限りないいのちの仏さま」という意味です。限りないいのちというのは時間を表しています。過去・現在・未来と常にはたらきかけてくださる阿弥陀さまの限りない功徳が、この私の人生の全てを摂め取ってくださいます。「帰命無量寿如来」という御文は、「いつでもこの私にはたらきかけてくださる阿弥陀さまの限りない功徳に全ておまかせします」ということです。
また、「南無不可思議光」の「不可思議光」というのは、「限りない光の仏さま」ということです。光は空間を照らします。阿弥陀さまの御光は、私たちでは思い計ることはできず、この世界の全てを照らす光です。つまり、阿弥陀さまの功徳は、私がどこにいようとも必ず届いてくださり、この私を照らしてくださいます。「南無不可思議光」とは、「どこにいてもこの私を照らしてくださる限りない光の功徳に全ておまかせします」ということです。
ここから「全ての衆生を必ず救う」という阿弥陀さまのお救いの完全性をいただくことができます。どんな時でも、どこにいても阿弥陀さまは私とご一緒してくださっています。この二句が「正信偈」の肝要で、ここに親鸞聖人が伝えようとしてくださっていることが込められています。
よく人生はマラソンに例えられます。マラソンというのは42.195kmを走り、順位を競う競技です。私たちの生活もそうではないでしょうか。毎日辛くても、しんどくても走り続けなければなりません。時には周りの人と比べて負けないようにします。
しかし阿弥陀さまのお救いに出遇わせていただいた私には、常に阿弥陀さまがご一緒してくださっています。今までの人生で築き上げてきた全ては、いのちを終える時には何の役にも立ちません。
そんな私に阿弥陀さまは、一生懸命走ればいいが、周りと比べる必要はない。あなたはあなたのペースで一歩一歩進めばいい。辛ければペースを落としてもいい。立ち止まってもいい。また走れそうになれば、その時はまた走り出せばいい。いつでもこの阿弥陀仏がそばにいるから安心せよ。もう歩けなくなった時(いのちを終える時)はこの阿弥陀仏に任せればいい。
このように阿弥陀さまは私の人生の伴走者としてどんな時も、どこにいても、いのち終えるその時までこの私にご一緒してくださいます。ありがたいですね。
南無阿弥陀仏