今を一生懸命に

お話

突然ですが、今朝は何時くらいに起きましたか?起きてから今までどのようなことをしましたか?顔を洗って、歯を磨いて、朝食を食べて、新聞・ニュースを見て、着替えて、掃除をして…。

では、朝起きた時何を考えましたか?「寒いな」、「もう少し寝たいな」と思われた方もおられたと思います。

それでは、朝起きて「今日も生きている」、「今日も朝を迎えられた」と思われた方はおられますか?

私たちは日々の暮らしの中で、当たり前のように夜眠りにつき、当たり前のように朝を迎えます。しかしその「当たり前」、誰が約束してくれましたか?誰が次の日を迎えることを約束してくれましたか?

私たちのいのちは誰にも約束されていないのです。

仏教には「老少不定ろうしょうふじょう」という言葉があります。「老人が先に死に、若者は後で死ぬとは限らない」という意味です。人のいのちの儚さを表しています。また、第8代宗主の蓮如上人の『御文章ごぶんしょう』の中にも、「われや先 人や先、今日ともしらず明日ともしらず」とあります。これは「白骨章はっこつしょう」に書かれている言葉で、お通夜などで一度は聞かれたことがあるのではないでしょうか。

私のいのちが終えるのが先か、他の人が先か。それが今日なのか明日なのか。それは誰にもわかりません。それなのに私たちは今あるいのちを当たり前と思っているのではないでしょうか。

私たちのいのちは儚いものです。老少不定で、明日のいのちすらも約束されていない身であるからこそ、後生ごしょう一大事いちだいじ、いのち終えた後のことをこころにかけなければなりません。

阿弥陀さまは、そんな私にいのち終えた後の世界、お浄土をご用意してくださっています。私たちの人生を「旅」としますと、お浄土は「帰る家」です。旅に出た時、美味しいご飯や観光を楽しむことができるのは、安心して帰る家があるからです。

私たちの人生も、お浄土があるからこそ、いつ終えるかわからないこの人生を安心して過ごせるのではないでしょうか。

今日で阪神淡路大震災から28年です。当時は1歳になってすぐだったので、記憶にはありませんが、多くの方に助けていただきました。多くの皆様のおかげで浄土真宗の御教えが、お念仏の御教えが絶えることなく相続されています。

毎年この時期になりますと、こころを改め、多くの方のおかげで今の私が存在し、またいつ終えるかわからないこのいのちだからこそ、一日一日、今この瞬間を一生懸命に生きていきたいと思わせていただいています。

南無阿弥陀仏