「仏法は聴聞に極まる」という言葉があります。
ではどうやって聞くことを「聴聞」というのでしょうか。
聞くといってもいろいろな聞き方があります。
頭で受け止めることを「理解」、心で受け止めることを「共感」、身で受け止めることを「領解」といいます。
仏法を聴聞する、わかったという場合は「領解」です。
「領解」とは、頭でもなく心でもなく、身に受け止めることができたということです。
頭の理解は上手な説明があれば達成します。心の理解は上手なお話にあえば生まれてきます。
けれども、身の領解はどれほど上手なお話にあっても実現しません。
身の領解は、み教えを心からよろこんでいる人のよろこびに遇わない限り実現しないようです。
言葉の表面だけを聞くのではなく、その言葉から語る人のよろこび、つまり語る人のみ教えに出遇ったよろこびに遇うのが領解なのです。
法話を聞いて「一つ賢くなれた。いい話だった。」と言う人と、「愚かさや恥ずかしさを知らされた。有り難かった。」という人があります。領解とは後者なのでしょう。
何が違うかというと、「自分で知る私は、時に落ち込み、時に賢く振る舞う私」と「阿弥陀さまに呼ばれた煩悩具足の凡夫という身の私」の違いなのです。
「煩悩具足の凡夫」というのは、阿弥陀さまが診断してくださった私の病名です。
怒りや腹立ち、妬み、嫉みなどの煩悩が命終えるその時まで消えることも絶えることもないのが凡夫であるこの私の正体です。
そのために迷いの世界を生まれ変わりを繰り返し、そこから抜け出せず、まるで迷いの海にただただ沈むしかない存在なんですね。
そんな私の問題を自己の問題として「そんなあなたを必ず救う」という願いを完成されたのが阿弥陀さまであり、今私に南無阿弥陀仏というお念仏、声の仏さまとなって届いてくださっています。
お聴聞を通して頭で理解したつもりでいて、また少し賢くなったと思うのではなく、そのことを自分のことだと聞かせていただく「領解」として聞かせていただきたいものですね。
南無阿弥陀仏