阿弥陀さまの存在理由

お話

私たちのことを「苦悩の有情(うじょう)」と言います。「有情」とは、「情の有る者」、すなわち私たちのことです。私たちには情が有るから、それが原因となって苦しみ悩まされます。この情を取り除くことができれば、苦悩もなくなるのでしょうがそれもできません。

情が有るがゆえに、苦悩して涙して生きていかなければならない私がここに存在して、それを放っておけないから阿弥陀さまはお出ましになってくださったのです。

よくお坊さんをしていると言うと、「般若心経はんにゃしんぎょう覚えてるん?」と聞かれます。お経=般若心経と思われているのかもしれません。しかし、私ども浄土真宗では、般若心経をお勤めしません。般若心経は、私たちに苦悩があるのは、「とらわれ」があるからであり、その「とらわれ」を取り除けば苦しみはなくなる。だからとらわれるなと説かれています。

しかし、この般若心経のようにとらわれを除くことができますでしょうか。もちろん般若心経を否定するわけではありません。山を登るとき、山頂までのルートは1本だけではないですよね。険しいルートもあれば、緩やかなルートもあります。その人の力量によってどのルートにするか選びます。仏教もそうです。「さとりを得る」、「仏になる」という目的は同じですが、その手段は様々です。

恥ずかしながら私はとらわれをなくすことはできそうにありません。どうしても物事を私の都合で見てしまいます。なので般若心経は私には間に合わない教えなのです。

とらわれるなと言われても、そのとらわれから離れることができないのが私の姿です。

このことを問題にしてくださったのが阿弥陀さまであります。阿弥陀さまの存在は、自分では情を断ち切ることができず、そのせいで悩み苦しんで、時には涙して生きていかなければならないこの私にも救われる道があったのだと気付かせてくださいます。

                                  南無阿弥陀仏