知恵と智慧

お話

私たちは学校や仕事、テレビ、本などから様々なことを学び、覚え、理解していきます。自らくなろうと努力をして身についたものが「知恵」です。

一方、阿弥陀さまの「智慧ちえ」というのは、全ての物事の本質、真理を見る「悟り」そのものです。  この「智慧」というのは、「光」に例えられます。その光に照らされたものは、自分が如何に愚かで、様々なことに執着しゅうじゃくし、他者との優劣を気にしてねたそねむ、煩悩にまみれている自分の姿に気づかされるのです。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があります。

「稲穂は実が入ると重くなって垂れてくる。学問や技能が深まると、おのずと他者に対してますます謙虚になる」という意味です。

かの天才物理学者のアインシュタインでさえ「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる」という言葉を残されています。

学問などは深めれば深めるほど、本来は自分の無力さを痛感し謙虚になるのではないでしょうか。

しかし、私たちは時には身につけた知恵を誇り、自分の力で生きていけるように思うようになると他者に対して高圧的になり、横柄になってしまうこともあるのではないかと思います。         自分の言っていることが正しい、それ以外は間違っている、自分が得た知恵がまるで全てのように思い、それに頼って生きているのが私たちです。

そんな私に、自分の愚かさや真理を知らしめてくださるのが、阿弥陀さまの「智慧」のおはたらきであります。

人の「知恵」はその人を偉くさせ、頭が上げる。                        一方、阿弥陀さまの「智慧」は、自分の愚かさを気づかせ、頭が下がります。

浄土真宗は、自分の愚かさに気づいて救われるみ教えであります。阿弥陀さまの智慧のおはたらきによって、自分はどこまでも愚かで煩悩具足ぼんのうぐそく凡夫ぼんぶであることを気づかされます。そしてそんな私を煩悩を備えたまま救ってくださいますのが阿弥陀さまのお救いであります。

Facebookを見ていますと、                                 「賢くなることを 教える世の中に 自分の愚かさを 気付かせる教えこそ 人間の道である」     という言葉がありました。

今は様々なところから多くの情報を得ることができ、多くの人が簡単に知恵を身につけることができます。                                            そんな世の中だからこそ、自分の愚かさに気づかせてくださる阿弥陀さまのみ教えに耳を傾けたいですね。

合掌