1月末の雪はすごかったですね。あまり雪が積もらない地域ですが、数センチも積もって、境内も真っ白な雪景色でした。
よく晴れだと「良い天気ですね」、雨や曇りだと「今日は天気が悪いですね」と言ってしまいます。
天気予報を見ていますと、「良い天気」、「悪い天気」という言葉は使われていません。気象庁の定める予報用語でも、使用を控える用語とされているそうです。
では、なぜこれらの言葉が使われないのでしょうか。
この「良い天気」、「悪い天気」の前には、ある言葉が隠れています。なんだかわかりますか?
それは、「私にとって」という言葉です。よく言う「良い天気」、「悪い天気」というのは、「私にとって良い天気」であり、「私にとって悪い天気」なのです。
よくよく思い返してみますと、私は小学生の頃から野球をしていたのですが、小学生・中学生の頃は練習が楽しみで、雨だと外で野球が出来ないので晴れてほしいといつも思っていました。しかし、高校生になると、練習も厳しくなり、休みもほとんどなかったので、身体が疲れていると「今日は雨降らんかな」と思っていました。
同じ晴れの天気でも、小学生・中学生の私にとっての晴れは「良い天気」であり、高校生の私にとっての晴れは「悪い天気」だったのです。
これは天気のことだけではありません。私たちの日々の暮らしの中の「良い」、「悪い」は全て「自分にとって」という自己中心的なものの見方なのです。
全ての物事をありのまま見れば、そこには「良い」、「悪い」はないはずです。それにも関わらず物事を自分の都合によってしか見ることができないのが私たちなのです。
無意識のうちに、物事の良し悪しを勝手に判断し、常に自己中心的なものの見方しかできない私は、阿弥陀さまのお救いにも気づくことができません。
親鸞聖人がお書きくださったご和讃の中にこのようなものがあります。
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり 『高僧和讃』
私たちは煩悩という色眼鏡を通してしか物事を見ることができません。そのため、物事のありのままの姿を見ることができず、また常に私を照らしてくださっている阿弥陀さまのお救いの光にも気付くことができないのです。しかし、そんな私を阿弥陀さまはその大いなるお慈悲の御心で、倦きることなく常に照らしてくださいます。
日々の暮らしの中で、いのちある限り離れることのできない煩悩という色眼鏡を通してしか物事を見てしまっている私は、自己中心的なものの見方しかできず、その結果、自分の都合によって物事の良し悪しを決めてしまう。しかし、ありのままの姿、本当の姿を見てくださっている阿弥陀さまに出遇わさせていただいた時、自分がいかに愚かなのだと気づかされます。
私たちは、阿弥陀さまのように全てのものをありのままに見る目を備えていません。しかし、その真似事をしてみませんか?物事を見る時、「あ、今自分の都合によって見てしまっているな」と。
ものの見方が変わるかもしれませんよ。
南無阿弥陀仏