仏法は聴聞に極まるなり

お話

皆さん、お聴聞ちょうもんしてますか?

浄土真宗では、阿弥陀さまの御教みおしえを聞かせていただくことを「お聴聞」と言います。

「聴」と「聞」、両方とも「きく」と読むことができますね。

私たちの日常でも「きく」という言葉を何気なく使っていますが、2つの「きく」はどのように違うと思いますか?

同じ読み方をしても漢字が違えば意味も変わってくるというのが日本語の難しいところでもありますね。

この2つの「きく」は、「どうきくのか」が違うんです。

まず「聴」は、例えば「音楽を聴く」といった時に使われるように、こちらから積極的に聴くという意味があります。注意をして聴く、選り好みをして聴くという時に、「聴」を使うんですね。

一方で「聞」は、雨の音が聞こえる、風の音が聞こえる、蝉の鳴き声が聞こえるというように、こちらが聞こうとしているかしていないかは別にして、聞こえてくるという時に「聞」を使うんですね。こちら側はあくまでも受け身の方であって、受動的にきくのが、「聞」です。

では「お聴聞」はどっちの「きく」でしょうか。

阿弥陀さまのお話を、疑いながら聴き、自分の考えや思いを交えて「信じようか、信じないか」と聴くのではなく、自分のこととして受け止め、聞こえたままに心に入れさせていただきます。

よくメモを取りながらお聴聞をされている方を見ます。もちろん忘れないようにすることは悪いことではありません。しかし、そのことに必死になって、阿弥陀さまのお話を自分のこととして聞けていなかったら、有り難いという思いも薄れてしまうんじゃないかなと思います。

初めは勉強のためや疑いながら聴いていても、何度も何度もお聴聞を重ねることでだんだんと自分のこととして受け入れるようになっていきます。

「聴」から「聞」になった時、阿弥陀さまの御教えが有り難いと気づかせていただくとともに、自分の愚かさにも気付かされます。

いかなるいのちも等しくおさめ取ってくださる阿弥陀さまは、どこか遠くにいるのではなく、今ここにいて、私のいのちに届いてくださっている。そう聞かせていただいて、どんな人生でも、どんな境遇でも、いつもご一緒してくださいます阿弥陀さま、有り難い仏さまだといただきます。

南無阿弥陀仏